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FM24.7 JP_monologue No.002 Ozaki Housai

尾崎放哉。

 咳をしても一人

の俳人である。
人類史上最強のTwitterユーザー(未遂)である。

国語のなかでも異端中の異端領域として際立つ「自由律俳句」。
季語を無視するどころか、五七五という俳句を成立させている根本の型式も無視、
ルールもへったくれもない文学である。
河東碧梧桐によってつくられたこの分野には、二人の天才が現れる。
動の種田山頭火と、静の尾崎放哉。
ともにガッタガタの人生を歩み、人に迷惑をかけまくり、
迷惑かけないように一人になり、かろうじて生き永らえながら
自由律俳句を詠み続けてひっそり死んだ二人である。

山頭火はまだあがいている。
放浪に、孤独に、人生に、世界に意味を見つけようとしている喉の渇いた句である。
一方、放哉はヤバい。圧倒的に危ない。
カッサカサの喉なのに、そのまま声にならない声を部屋でただつぶやいている。
山頭火は水を与えれば何とかなりそうな気がするが、放哉は完全に手遅れ。お手上げです。

持て余す時間の中で、ただ衰弱していく自分の体と衰弱していく世界のことを
二十文字程度で単純に状況報告しているだけなのだが、これが文学史上、屈指に危ない。
ビリビリくるこの危機感の正体は一体なんだろうか。

放哉のバイオグラフィをおさらいすると以下の通り。

1885年 鳥取県生まれ。
1889年 14歳で俳句を始める。
1905年 東京帝国大学入学。
1909年 東京帝国大学法科大学政治学科卒業。通信社入社。
1915年 自由律俳句誌「層雲」に寄稿。
1923年 この間何度も就職して重役ポストに付くも、
      その都度素行不良で罷免される。肋膜炎悪化で入院。
1924~1926年 色んな寺の寺男となり、最終的に小豆島の南郷庵に入る。
1926年 4月7日死去。享年41歳。
  

尾崎放哉


種田山頭火

 
俳句を始めたばかりの14歳頃の句は美しい。

 きれ凧の糸かかりけり梅の枝

 寒菊や鶏を呼ぶ畑のすみ

 欄干に若葉のせまる二階かな

視線の移り変わりを鮮やかに表現する、シーケンシャルな句。
心がわずかに動く瞬間の状況描写をそのままに出す、正しい俳句を見せてくれる。


一高時代を経て、大学時代は盛んに作品を投稿する。

 あの僧があの庵へ去ぬ冬田かな

 煮凝りの鍋を鳴らして侘びつくす

 すき腹を鳴いて蚊が出るあくび哉

テクニカルで、ユーモアの感じられる句が多い。
この諧謔性が、実はどこか嘲笑じみた晩年の珠玉の名句の確かな素養になっているように思う。
  
   
その後、就職~罷免を幾度か経て、寺男として各地を転々とする時代へ。
この頃から句は自由律になり始め、誰にも真似のできないつぶやきの表現が生まれ始める。

 若葉の匂の中焼場につきたり

 風の中走り来て手の中のあつい銭

 ねそべつて書いて居る手紙を鶏に覗かれる

 一日物云はず蝶の影さす

 昼寝起きればつかれた物のかげばかり

 何も忘れた気で夏帽をかぶつて

 蟻を殺す殺すつぎから出てくる

 写真うつしたきりで夕風にわかれてしまつた

 刈田で烏の顔をまぢかに見た

 障子しめきつて淋しさをみたす

 今朝の夢を忘れて草むしりをして居た

 鳩がなくま昼の屋根が重たい

 ただ風ばかり吹く日の雑念

 うそをついたやうな昼の月がある

 雀のあたたかさを握るはなしてやる

 こんな大きな石塔の下で死んでゐる

 あけた事がない扉の前で冬陽にあたつてゐる

 淋しいからだから爪がのび出す

 一本のからかさを貸してしまつた
  

「層雲」
 
そして辿り着いた小豆島時代といわれる放哉最期の一年間における作品群は凄まじい。
ここからがヤバい。かまいたちの切れ味というべきか、音も感触もなく、
いつのまにか切られているような不気味な発句ばかりである。

 足のうら洗へば白くなる

 水を呑んでは小便しに出る雑草

 花火があがる空の方が町だよ

 迷つて来たまんまの犬で居る

 寂しい寝る本がない

 爪切つたゆびが十本ある

 入れものが無い両手でうける

 なんと丸い月が出たよ窓

 口あけぬ蜆死んでゐる

 墓のうらに廻る

 渚白い足出し

 肉がやせて来る太い骨である

 春の山のうしろから烟が出だした
  

小豆島










入れものが無い両手でうける





 
最期は自然と自分の体へ目を向けた句が多い。
病云々以前に、「一人である」ということから気付かされる自分の体のこと。

 入れものが無い両手でうける

道具がなく、人がいない、から自分の体を使うしかない。
「最終手段としての自分の体」を描いたこの句は、
いよいよ世界に自分しかいない状態として異常なリアリティを持つ。

 墓のうらに廻る

そんな世界のなかで、時間だけを持て余し、
墓のうらに廻る(=彼岸に立った気になって此岸を眺めてみる)程度の思いつきの行動力だけがある。
しかしそんな微細すぎる思いつきは、もはや行動力とも呼べない。
言語化し得ないレベルの体と心を動かすエネルギーの言語化に成功した、数少ない文学がここにある。


Twitterで実体化される天文学的な数のつぶやきは、脈絡を記せない文量がゆえに
地球全体が自由律俳句のオンステージになるポテンシャルを持っている。

そしてこうした状況のなかで、人間という生物の終わり方ってどんなんだろうと考えたとき、
映画のように天変地異に翻弄されて泣き叫びながら終わるよりも、
人間全員が尾崎放哉になって終わる方が僕には圧倒的にリアリティがある。

つまり彼の目と言葉には、人一人の心臓の鼓動が止まっていく推移どころではない、
人間全員の胎動、歴史という壮大な振動を全く同じように止めてしまうくらいのスケールの
危険性が潜んでいる。
二十字もない言葉で人類全員の関係性を引き離し、誰をも一人にしてしまうとんでもない暴力性。
そしてそんな人類全員の首を絞めるなんて真似は、二十字足らずの言葉でしか為し得ないことを知る。

その言葉の力を知らないままに、システムによって皆が強制的に俳人となり、
つぶやきで地球が埋め尽くされるこの文化の特異点において、
人類が本当に賢いならば、放哉の句がある以上、人類史はいつ終わってもいい。
それがとてつもなく危ない。

しかし幸いなことに人類はそこまで賢くなれない。言葉をないがしろにして生きていける。
なんでもない言葉、なんでもないつぶやきがとてつもなく優しくて嬉しい。
だから放哉のつぶやきにゾッと感動出来る。

言葉を全部大切にしていたら、あっという間に殺される。

Text by MATSUSHIMA


REVIEW by FUJII
我々は一日の生活を送る間に、実に約15000語の単語を発しているらしい。

もちろん個人差はあるだろうが、
一人の人間から10000を超える言葉が毎日生まれているという事実はそれだけで驚嘆に値する。
しかし我々はそのほとんどについて意味を深く考えるわけでもなく、
発したことさえ忘れてしまうくらいだ。

松島の言う
「言葉を全部大切にしていたら、あっという間に殺される。」
とは、言語の恐るべき深みを示す究極的な意見だが、
彼は同時に無意味な言葉の意義についても言及している。

僕の考える最も無意味な言葉とは挨拶である。
もはや「こんにちは」なんて言葉の意味とは別次元にあるといってもよい。
しかし誰もが、その意味から浮遊した言葉を発している。

一般的に言葉というのは意思伝達のためのツールとしての認識が強いが、
実はもっと根源的には「お互いの存在を確認すること」としての意義もある。
意味のない言葉を交わすことで、とりあえずお互いが「いる」ことを認め合うことは
コミュニケーションのレベルとしては低いかもしれないが、我々が人と生きるためには必要な所作である。

無意味な言葉があるからこそ生きてられるのだ。

  
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